キッカケ

そもそもどういうキッカケで、シリコンバレーに来て働くようになったかについて少し。

 

今振り返ってみると、文系でSEをやっていた自分が、シリコンバレーの開発部門に移籍することが出来たのも、あの時 ”様々な人との出会い”、”将来の目標”、そして “タイミング” がいい形で交差したからだな~とつくづく思う。逆を言えば、そのどれかが欠けていたら、今違った場所にいたと思う。

 

2002年に新卒でCisco Systemsに入社したとき、2-3年ぐらいの期間で区切って、新しいポジションに移っていき、自己研鑚を続けていくと心に決めていた。

入社してからの最初の3年、幸いなことに国内外合わせて、本当に良い先輩やチームからの温かいサポートのお陰で、色々と難易度の高いことにもどんどんチャレンジさせてもらえた。もちろん、成功ばかりではなく、失敗も数多くしたけど、本当に素敵な人たちに恵まれ、色々とフォローもしてもらい、なんとかやってこれた。 (特にあの当時同じチームで自分を鍛えてくれた先輩方がいなかったら、今の自分は無いと確信しています、はい。それぐらい重要な出会いでした。)

 

そして3年目が終わろうとしている2004年末に、入社2年目ぐらいから手がけていて、かなりがっつりとサンノゼの開発チーム(ちなみに開発チームのことを、一般的にBU(Business Unit)という)と組んでやっていたプロジェクトが1つ終わり、その最後のMeetingと今後の話をするために単身シリコンバレーの本社に来ていた。

そのプロジェクトでの自分の役回りは、ざっくり言うとお客さんやパートナーへ技術的な提案・検証を行ったり、アメリカの開発部門や他部署を巻き込んでCross-Functionalチームを作り、リソースを引っ張ってきて機能改善や開発をしたり、社内外の交渉並びに調整をリードしたりして、いかにプロジェクトを成功させるか?というようなことに注力していた。 (のちにこの部分の実体験がアメリカへ来てからも役に立つのだけど、その辺の話はまたの機会に。)

 

このプロジェクトが終わったら、次のステップへ行こう。と決めていたプロジェクトだっただけに、感慨深いものがあって、なんでここで働いているのか、自分のスタンス、これからどうしたいか?そういった話を、この案件で一番お世話になっていたBUのインド人マネージャーに話をしていたら、そのマネージャーが

 

「Yutaにその気があるなら、こっちで一緒に働かないか?」

 

と誘ってくれた。これは素直に嬉しかった :) 勘違いかもしれないけど、自分のやってきたことが世界のスタンダードの中で少しでも評価された、と手応えを持てた瞬間でもあったから。

 

もちろんこっちに移籍する、ということは基本的に片道切符の移住を意味するわけで、色々と大きく変わるし、Cisco Japanの社内を見ても、今まで日本からアメリカの開発チームに、こういった形で転籍した前例はなかったので、一瞬考えて、いつまでに返事をしたらいいか?と尋ねたら、明日まで、と言ってくるw

 

今となってみればまあ当たり前のことなのだけど、Req(正式にはRequisitionといって、いわゆる空きヘッドカウントのこと。通常”req”という呼び方をする)は本当に流動的で、持っている時に人を取らないと、すぐに無くなってしまう。なので、明日まで、というPushも今となってはうなずける。(あと、いい意味で無駄に考えすぎて迷わせないような意図もあったんだろうけど。)

 

実はこの段階で9割方、腹は決まっていた。というのは、以前から、この業界で自分が仕事をしていくのであれば、やはり世界最高峰のところで、他の国のやつらと同じ土俵(雇用条件も含めて)で勝負して切磋琢磨していきたいし、そんな中で自分を試したかった。そうすることで、客観的な自分自身の市場価値が分かるし、何より自分が将来実現したいことが一番いい形で実現できるから。それに、前例がない、って言ったっていずれ誰かが破るんだし、躊躇する理由になんてならなかった。

 

で、翌日に正式に返事をして、そこから移籍&移住に向けたプロセスがスタートした。

 

こちらに来ても思うのは、努力を継続していれば、チャンスは必ず目の前をよぎる。ただ、そのチャンスをちゃんとつかめるか、またそのチャンスが来た時に自分自身が即決して、すぐに行動に移せるか?というのは日頃からきちんと考えて、動いているか否かが大きく左右する。どんなチャンスでも自分自身がReadyではなかったら、そのチャンスはすぐに目の前を通り過ぎてしまい、数カ月後に後悔する、なんてことになる。この例で言ったら、インド人のマネージャーがオファーをくれた時に自分がReadyでなかったら、翌日普通に断っていたかもしれない。

                                   

そんなこんなで、2005年の1月から、アメリカ転籍へと向けたプロセスがスタートする。

 

このアメリカへの転籍は、手続き上は日本のCiscoを退職して、アメリカのCiscoへと中途で入り直す、という形を取るので、少ないけど退職金をもらったりもした。

基本的に外資の日本オフィスは営業がメインの拠点なので、本社への駐在という概念はほとんどない。(たまに日本から派遣されて、本社で中期間(Max 1~2年ぐらい)仕事をして帰国する、というケースは稀にあるけど。) 

だから、駐在のひとが受けるような福利厚生や補助なんてものはない。でも、そんなベネフィットが無いほうが、自分の実力の分だけの給料をもらってそれで生きていく、とシンプルでいられるから、自分にとってはむしろウェルカムだった。

ただそのインド人のマネージャーが持っていたReqは、ローカルReqといって、原則現地の人間のみ採用可能なReqだったのを、彼がHR等を説き伏せて、無理やりInternational Reqにしてくれたので予算がそこまでなく、自分はのちに引越し費用などをいかに切り詰めるか、などに苦心することになるw (アメリカでのヘッドカウントの種類などについては、もう少し詳細に今度書くとします。)

でもここまでして、この機会を作ってくれた当時のマネージャーには、今でも本当に心から感謝している。(今でも時々会って、メンターしてもらっています :) )

 

そんなこんなでビザの手続き、引越しの手続き、アメリカでの最初1ヶ月間の滞在先の確保、引継ぎなどなどを終わらせ、2005年7月に渡米をした。あの時の成田を出るときの光景は、今でも鮮明に覚えている。

不思議と恐怖心はぜんぜんなくて、ワクワクしている自分がいた :)